花が咲かない椿
作品紹介 > 月の精アリサと七つの夜の物語 > 番外編 > 第二・五夜 月夜の落とし物




 人が絶え間なく行き交うフレッツェル通り。
 夕暮れ時ということもあって晩ご飯の材料を買い求めにきているのだろうか。ロングブーツにエプロンドレスといった主婦風の女性がほとんど。両脇に肉屋、魚屋、八百屋、果物屋、パン屋、お菓子屋、酒屋、スパイス専門店……と枚挙にいとまのないほど様々な店が立ち並ぶ。
「まったく。一体どこで何を落としたっていうんだい」
「どこに落ちている分かったら苦労しないよ」
 そんな中、銀色の長い髪をしたすらりと背の高い女性と、彼女について歩く小柄な黒髪の少年の姿があった。女性は二十四、五歳くらい。肌は透き通るように白く、睫毛は黒く長く、目は髪と同じ銀色で、オレンジがかったピンクの口紅をつけている。白い布のバックを肩にかけ、裾を地面にひきずるかひきずらないかというほど長いグレーのロングワンピース。時折足元を見回しつつ早足で歩く。
 少年は十歳くらいのやせっぽっちな男の子。大きな漆黒の瞳が印象的だった。白いノーカラーの編み上げシャツに紺の半ズボン。必死で彼女の背中を追う。
「ねぇ、アリサ……待って。もっとゆっくり歩いてよぉ」
「ついて来れないならセシル一人で探しな。落とし物を一緒に探してほしいって言うから来てやったのに」
 アリサは不機嫌そうにセシルの方を振り返った。
「あたしは忙しいんだよ。奥さまから頼まれた用事もあるし、あんたの宿題も見てあげないといけないし」
「家政婦と家庭教師のお仕事をいっぺんにするなんて大変だものね。今日はお休みでいいんじゃない?」
「バカ言うんじゃないよ」
 いらっしゃいお姉さん、おまけしとくよとほうぼうの店から声をかけられても足を止めることはなく、相変わらずつんとした表情で人混みを交わしつつフレッツェル通りを探索しつつ歩く。
「アリサ、見て。パゴダ精肉店のローストビーフ美味しそう」
「今夜はシチューとチキンソテーで決まりなんだよ」
「知ってる? タフィーおばさんの魚屋でフィッシュアンドチップスが買えるようになったんだよ」
「知らない」
「ノースウエスト・ブーランジェリーのパンはいつも焼き立てでいいにおいがするね。久しぶりにチョコクリームパンが食べたいなぁ」
「行くよ」
「パティスリー・シュクレの星形ケーキ、アリサも好きだったよね。あんなにたくさん新しいのが出てる」
「行くよ」
「聞いた? さっきの女の子。あの女の人すごくきれいって言ってた」
 セシルが気になる店の前で立ち止まって呼び止めようとしても振り返ることすらせず先を急ぐアリサ。やがて最後のシナモンズ・スパイスショップまで来るとようやく足を
止めた。
「見つかったかい?」
「ううん」
 セシルは首は横に振った。
「ほかに心当たりのある場所は?」
「リトス通りにもなかったし、外で心当たりのあるところはここぐらい。家の中じゃなさそうだし」
「そもそも何を落としたわけ? 分からなきゃこっちも探しようがないじゃないか」
「それが……僕もよく分かっていないんだ」
「はぁ?」
 ついに我慢できないという様子で、アリサはキッとうつむくセシルをにらみつけた。
「いい加減にしな。いつまでたっても子どもなんだから」
「だって僕子どもだもん、子どもが子どもで何が悪いの?」
「成長ってものを知らないのかい」
 そしてセシルをおいてさらに早足でフレッツェル通りを抜け、角を曲がって先に家に帰ってしまった。
 オレンジ色に染まる日没間際の西の空に、うっすら月が出ているのが見えた。満月だった。

           ★

 コン、コン。
 セシルが控えめにその部屋のドアをノックする。
 いくら待っても返事はない。
 ドアノブをそっと回して開けた。
 生成色の掛け布団とシーツのかかったベッドにクローゼット、椅子つき丸テーブル、戸棚と必要最低限の家具だけ備え付けられた飾り気のない空間。
 アリサはゆったりとした姿勢で椅子に腰かけていた。窓のふちに置かれた地球ではないどこかの星の球儀を見つめながら物思いにふけっている。
 テーブルの上には茶色の凝った装丁の分厚い本が開かれていた。上部に月と星の飾りのついた木製の杖──先端は万年筆のようなペン先になっていた──が、ひとりでに白紙のページに文字を書き綴っていく。
 電灯はついていなかった。けれど部屋の中はそうした様子がはっきり分かるぐらい明るかった。いつもは遠くの空にぽつんとした見えない月が、大きく取られたこの部屋の窓の半分を覆ってしまうくらい近くに降りてきていたから……。
 アリサの髪は月の光と同じ金色に輝いていた。
「何時だと思ってるんだい。子どもは寝る時間だよ」
「十時半。普段より十五分遅いだけだもん」
 足音に気づいたのか、じろりとセシルをにらむ。びくりとしてセシルが二歩下がる。
 彼女の手元には鈍色のチェーンの通された球形の青い陶器の小物入れがあった。よく見ると表面にひびが入っている。
 歓迎されているようではなかったものの、セシルはおずおずとアリサの近くに寄った。
「やっぱり怒ってる……よね。この間アリサが落っことした時に僕がふんづけて割っちゃったやつ。プレゼントだったんでしょ? すごく大事にしてた」
「怒ってない、あんたは悪くないって何度言ったら分かるんだか」
 アリサはフンと鼻をならし、窓のふちから立ち上がった。
「結局見つからなかったんだね? 落とし物は」
「気にしてくれてたんだ」
「一応世話係だからさ。あんたがそんなにしぶとく探し回るの初めてだし」
「アストラル十一区には落ちてないみたいだった。僕は生まれてから一度もこの街を出たことがないから、地上にはないのかもしれない」
「そう。なら仕方ないね」
 両開きの窓が自然に開かれると、接近した満月からよりいっそう強い光が放たれた。その場に起きた風で彼女の金の髪がはたはたと揺らされる。
「行こうか」
 風はどういうわけか外から中へではなく、外に向かって吸い込む方向に強く吹いていた。部屋の中にいる人達を夜の世界へといざなうかのように。
「空に、探しに行くんだね」
 セシルは興奮した口調で飛び跳ねた。
「アリサが初めてこの家に来た時のこと思い出すよ。あの時も本当にびっくりした。でも、あの満月の日から僕は毎日夜が来るのが楽しみで仕方がなくなった。だってアリサがいるとこんな風に毎晩わくわくするぐらい不思議なことが起こるんだもん……!」
「いいから早く支度しな」
 書き物をしていたペンの杖がひゅんと飛び上がり、アリサの手の中におさまった。とがったペン先を使って小物入れのチェーンを二つに切り離し、杖の両端に結びつける。役目を終えるとペン先は消えてただの木の棒になった。
「これが戻ってきたらすぐ出発するよ」
「戻ってきたらって?」
 アリサはチェーンの結びつけられた杖を窓から月に向けて思いっきり放り投げた。
 カチャン。
 信じられないことに、杖の両端のチェーンが上空の月に引っかかった音だった。杖の柄と一緒にどんどん太く、長くなる。月から吊るされた空中ブランコとなって再びアリサの部屋の窓へと戻ってくる。
「あと二十秒で」アリサは言った。「ブランコが来るから飛び乗るんだ。失敗したら二階から下にまっさかさまだよ。いいね?」
「えぇっ。よくないよ。僕、高いところは好きだけど怖いの知ってるでしょ?」
「近所のどの女の子よりも女の子らしくてほんと困るよ」
 アリサはため息をつき、
「合図したら一緒に飛ぶんだ。離すんじゃないよ」
「うん。絶対に離さない」
 セシルは彼女から差し出された手をしっかりと握った。二人そろって窓のふちに立つ。
 十、九、八、七、六……
「あと五秒。準備はいいかい?」
「いいよ」
「三、二、一……それっ!」
 もっとも近づいた時、アリサとセシルは一斉に窓から飛び上がった。無事お尻から台に着地すると、ブランコは振り子のように下向きの弧線を描き始めた。
「すごい。気持ちいいね」
 一番低い位置に来た時ですらセシルの家の屋根もフレッツェル通りの店も豆粒くらいの大きさだった。再び上昇し、勢いよく風を切って進む。はるか上の方にあった星がどんどん近くなっていく。
「もうすぐ着くね。あと三秒で降りるよ」
「でもこの下はなんにもないよ? 今ブランコから降りたら地上に落っこちちゃうよ」
「前にも連れてきてやったじゃないか。ほら行くよ……三、二、一!」
「うわー!」
 ブランコが月よりも上、もっとも高い位置まで来た時、アリサはセシルの手を引いて夜空へと飛び降りた。二人はまっさかさまに落ちることはなく、透明な床に着地するかのようにある地点ですとんと空気に足をつけた。
「何度来てもおっかないね。でも何度来ても素敵な場所」
 星はセシルと同じ目線、手を伸ばせば届きそうなところにあった。というより吊るされていた──一つ一つが天から伸びた透明ない糸で結ばれている。
 吊るされた星はパステルカラーのピンク、黄色、オレンジと色とりどりで、大きさは手のひらくらいだったりこんぺいとうくらいだったりとまちまち。セシルはそのうちの黄色いものに近づき、うっとりした顔でにおいをかぎ、そしてぱくりと星を食べてしまった。
「レモンかと思ったらパイン味だった。パティスリー・シュクレのキャンディよりずっと美味しいや」
「こらっ。また勝手に食べて」
 アリサに頭をこずかれると、セシルはえへへと笑った。「だって自由に食べていいって言ってくれたんだもん」
「そのとおり。好きなだけ食べていいんだよ」
 ミッドナイトブルーの髪と目、胸元の開いた濃紺の編み上げ服に床にまでつきそうなほど長い金色のベスト、ゆったりした白のパンツ姿の男性が立っていた。
「星の番人の館へようこそ」
 彼は二人に微笑みかけた。左目にかかりがちな前髪を手ではねのけるときらきらと星屑が舞った。
「こんばんは。エンディミオン」
「悪いね。仕事中に」
「構わない。今夜も会えて嬉しいよ。アリサ」
「エンディ」
 アリサが微笑み返してみせたのはこれが初めてだった。
 しばし見つめ合う二人にくすっと笑うセシル。
「僕知ってるもん。本当はアリサは毎晩エンディミオンに会いた……むごごご」
 すかさず口に「チャック」される。
「これ、今夜はあまり書けなかったけど」
 布のバックからアリサが取り出したのは、部屋の丸テーブルに置いてあった茶色く分厚い本だった。エンディミオンが「どうもありがとう」と受け取る。
「ずっと不思議に思ってた。毎晩アリサがペンの杖に書かせてるそれ、一体何なの?」
「特別に見せてあげよう」
 エンディミオンは「今日のページ」を開き、金色のインクを指でなぞった。
 本がまばゆく輝き出す。書かれた文字が飛び出した際に放たれた光だった。
「わぁ……!」
 目の前の光景に、セシルは感嘆の声をあげた。
 光は無数のシャボン玉に変わり、きらめきながら星の番人の館中を飛び交った。
 シャボン玉の中に様々なものが映りこんでいる。
 屋根の上で昼寝をするネコ。
 ポプラ並木の道を仲睦まじげに歩く若い男女。
 ごったがえのフレッツツェル通り。パティスリー・シュクレの厨房で、パティシエがケーキ作りに精を出している。
 落とし物を探して歩くセシルとアリサの姿もあった。
 やがてシャボン玉は何方向かに分かれてふわふわと飛んでいった。あるものはすぐそばにある月に、あるものは遠くに見える別の惑星を目指して。
「アカシックレコードと言って──」
 エンディミオンが手をかざすとすべてのシャボン玉が行儀よく列を作り、ほうぼうに星に向けて流れる泡の川ができた。
「あらゆる物事や人々の感情を記録するこの世界の記憶。みんなが寝静まった頃にその日の分が生み出されて地上をさまよい、やがて高く上がっていく。そもそもこの世界はこの夜空、つまり宇宙から創られたものだから、いずれ生まれた場所に帰っていく運命にあるんだ。死んでしまった人や壊れた物を焼いた煙が、空に吸い込まれていくのと同じように」
「なるほど……」
「僕の仕事はアカシックレコードを管理すること。物事の種類や起こった場所によって何ヶ所かに整理して保管するようにしている。月も含めて地球の近くにある星はアカシックレコードの倉庫。アリサにも集める作業を少しだけ手伝ってもらっているんだよ」
「あのシャボン玉をのぞけば今夜までに起きたこと、誰が何を思ったり考えたりしたかが全部分かるんだね」
「……と言いたいところだけど」
 遅れて一つだけ本から浮かび上がったシャボン玉を月へと誘導しながら、エンディミオンは首を横に振った。
「なんせこの世界すべての記憶というと膨大だからね。一粒残らず集めきるわけにもいかないんだ。残念ながら、ざっと見た限りでは君が探しているものを君が落とした場面もこの中には含まれていないようだ」
「今夜までのって言ったけど、明日の朝からのこともちゃんと記録されてるんだからね」
 とアリサ。
「今より未来のことが? どれ? どこの星に?」
 セシルがきょろきょろとあたりを見回す。
 エンディミオンがそっと自分の胸に手を当てる。
 胸から出た光が彼の大きく細長い手に宿った。
 その手を高く上げると夜空に解き放たれ、流れ星のシャワーになって降り注ぐ。
「君達は夜眠ろうとする時、その日に経験した出来事を思い出していろんなことを考える。明日はあんな失敗しないように気をつけよう、今日できなかったことを明日必ずやろう。人々の心から生じた様々な思いが未来を作っていく。小さな未来のかけらはいつしかこの世界を動かす。だから、一日一日を大事に生きるんだよ」
「うん。分かった」
 セシルは大きく頷いた。
「今はもちろん、大人になってからもずっと忘れないでおくよ」
 流れ星が残した光がとどまっている。空に輝くじゅうたんが敷かれたようだった。ある光は笑い、ある光同士はささやき合い、またある星はきらめいて明日を想像する。
 月が呼応し、よりいっそう明るくなって夜の闇を照らす。
「ほら」
 アリサがセシルに手渡したのは特大の星型ルーペだった。「これがあればどこに落ちてても探せるだろ」
「わぁ。これすごいね」
 ルーペを下にかざすと、地上の道の雑草に隠れているてんとう虫まではっきりと見分けることができた。
「どうだい?」
「うん、やっと見つかった」
 セシルはルーペをアリサにかざした。
「僕が落としたのは君の笑顔だよ。アリサはつんとしてても怒っててもきれいだけど、にこにこ楽しそうにしてる方がずっと素敵だし、お月様もお星さまも、この夜空の下にいる人達もみんな喜ぶんだから」
「まったくあんたって子は。いつもぐずぐずめそめそしてばかりでどうしようもない子どもだけど……」
 アリサはセシルの頭をぐしゃぐしゃっと撫でた。
「ひゃっ。僕何か悪いこと言った?」
「ほんの一瞬だけ、とびきりの紳士になる時があるんだ」
 二人を優しい眼差しで見守るエンディミオン。
 残っていた光のかけらから金色のハート型のペンダントが生み出され、アリサの胸元におさまった。
 この記憶もまたシャボン玉の中に投影され、月へと旅立っていく。
 静かにそろう三つの声。「よき夜を」

(了)


▲BACK